はじめまして

あなたに出会えた事をいつか大切に出来ますように。

 

出会えた事が幸せだと思える様に。

 

誰でもない、あなたと、どこの誰かも分からない私が出会えた事を、大切に思える日が来ますように。

 

【このブログについて】

これは個人的な日記や思った事を書くブログです。

でも個人の日記帳の様に後で自分だけが読むものではないので、私は手紙だと思っています。

宛先はあなたです。

 

私はあなたを知らないけれど、あなたに宛てて書いたそんな手紙。

 

インターネットという、海に浮かんでる瓶に入った手紙。ちょっとロマンティックでしょ?

 

中身はロマンティックとはかけ離れてそうですがね。

その瓶の中の手紙を開くのも読むのも、捨てるのも自由なんです。

 

だからそんな手紙だと、忘れないで。

キラキラネームとかいうやつ

いわゆる私はひきこもりニートです。

そんなど底辺のやつの言うこときにする必要ないだろうから言うけど、名づけに対する知識がないことが教養のなさに見えたとして、そこまでは強引に納得も出来るが…

 

人として親として尊敬するに値するかは、私には結びつかない。

名付けられた子供の話はここではしない。

 

 

ある大型掲示板(笑)のまとめで男につけられるのが通常の名前、しかし響きだけだけだと女の子っぽい。ただ二文字の漢字のその名前がその二文字の漢字の場合男の名前だというのはそこのスレでは常識であり、教養があるってことだそうだ。

 

世界はとりあえずそのスレだけではないと気づいてると思うけど。

自分が大切な子供に付けた名前に、名付けの知識が不足しててそれが原因で我が子がいじめられた。その時点でその名前が伝統的に男につけられるものだと知っていたが名付けた時には知らなかった。幼稚園で名前をいじめられた我が子をどうなぐさめていいか分からない。

 

 

さてここで親としてどうするべきか。

子供のいない私には一生わかんない。そしてその親子での正解はその親子の正解でしかないだろうことは分かる。

 

スレの中で学がないと責める声もあったし、その名前の女の子の「家庭」は教養がないと普段から感じる意見もあった。

その人の思考は理解できなけれど、「教養」と「知識」は愛してもくれないし子育てに対して「最低限」しか本当はいらないんじゃないかと、子供のない私は思う。

理想の家庭や理想の親ってなにか知らないけど、その中に本当に必要なものが「学歴」とか「血筋」と同じレベルの「教養」と「知識」なら、その人たちはそんな家庭を作ればいい。

 

私の親は親としての子育ては完璧に近いレベルで、尊敬できる。子供が私じゃなければいい子が育ったことだろうと思う。

特に母は母親の理想像に近いのかもしれない。もちろん人だから悩みも間違いも後悔もしてきただろうし、それでも諦めず母親として生きてきた。

まだ私なんかの母でいる人だ。

 

なんでこんな素敵な親の子供が私なんだろう理不尽だと私が嘆くくらいだ。

しかしどう考えても祖父母4人の血筋的にADHDサラブレット感が半端ないので私が生まれた時点でしょうがないことだ。

 

 

でもね、私を否定する言葉をそういう意味で吐く事はない親だよ。

私がちょっとあれでそう受け取ってしまうことがあっても、いつだって私の悪いところを叱っても私を否定はしてなかったと思う。

 

 

例えば私が子供を持って(想像だけで恐怖だが)女の子に伝統的な男の名前を知らずにつけ、それで子供がいじめられたと泣いたらなんていうか。

「確かに親としての知識のなさがその名前をつけた原因でそれであなた(子供)が苦しい思いをした事は謝る頭悪くてごめんね、でもね。その名前は私があなたが生まれたことを喜んでずっと大切にしたい子供につけた名前なの、世間でなんて言われようとあなたに名前をつけた時の大切な愛しい思いだけは変わらない、自分の知識のなさを悔やむことはあるけれどその名前をつけたことを悔やんでない、それであなたが辛い思いをするのはやはり私も辛いけれど私があなたを大切に愛しいと思っている事は誰にも否定させない、馬鹿な親でごめんね」

 

くらいになるかな。年頃にもよるだろうけど。

大切だと愛しいと思う子に、それを名付けた時の気持ち。

それが自分の知識のなさ、常識のなさをひけらかす事だとしても、その思いだけは誰にだって否定させない。自分が馬鹿だって悔いることはあってもその子の名前に後悔なんてしないよ。親が後悔するべきは自分の知識のなさで、その名前じゃない。

 

子供ってさ、結構わかるんだ。

親が名前を後悔してれば、自分の名前が恥ずかしいって思うだろうさ。

でも親がそうでなく胸を張ってあなたを愛してるからつけたというなら、恥ずかしいとは思わないだろうよ。

幼稚園なんて、親とその幼稚園しか世界がない。

その幼稚園でいくら否定されても親が否定しなければ、そんなに大きな問題じゃないと思うんだ……。

きらきらネーム、子供をペットだと思ってる親が付けるケースもあるけど過敏になりすぎてる日本が怖いよ…。名前だよただの。自分が子供を愛してる何より大切だって思いより名前の方が大切な日本、怖いよ。

ちょっと真面目に見えるお話

立憲主義

 

これを簡潔に即説明できますか?

 

日本の政治・法律・司法その他あらゆるものの方針でもある「立憲主義」言葉として知っている人は多くとも即、説明は難しい気がする。

 

実は私は出来なかった。

それからもう一度調べて今は出来るけれど。

 

まぁすっごく砕いて言うと

 

憲法のもとで国は動くんだよー」

 

って事になるとおもう。砕きすぎてる気もするけど、法律的即目で言えば憲法に違反する法律は違憲として存在できない(作れない)。全ての法律が憲法に反してはいけないということで、法律の法律みたいな意味もある。

 

法律を専門的に学んだ人なら当たり前だろうけど、刑法の中の違法行為が憲法でその法自体の違憲が絡んだ場合、優先されるのは憲法である。

そして法学とは実は解釈と判例を学ぶことなのだ。

なにせ日本国憲法は改変されることなく現存する憲法では一番長い。

そのうち1世紀すぎるだろうレベルで改正されてない。

改正が難しい理由もそれが憲法によって決められているからだったりもする…のかな?

 

日本国憲法が成立したのは正確な年、日付を知らなくてもいつどんな状態の日本でかは日本人ならばすぐに思い浮かぶんじゃないだろうか。

 

そして草案を含め制定される過程で日本人以外が関与していたことも。

 

それ自体を議論する事もあるが、現在も改正されず日本国憲法の元の立憲主義を日本はとり続けている。

 

それが出来た理由は憲法の改正が憲法で難しいのと、憲法で定められた範囲が少ない事もあるのかな?

 

近代化が進み憲法の改正を必要とせずに、新たな法律や民法、刑法、行政法の改正(してたと思ってるけどしてないかな?してるのは刑法は確かだと思うけど)で対応できたからでもある。

 

さて、民法はいま漢字と平仮名の現代文らしい。

びっくり。10数年前まで漢字とカタカナの読みづらい法律だった気がする。

ともかくその民法すら10年前の当時から解釈を必要としてたのだ。

学説的な解釈、最高裁判例

裁判では重要なことである。

最高裁判例が実はすごく裁判では需要だと知ってるのはどのくらいだろう。

判決が判例と食い違う事が上告の条件になるレベルである。

 

それはさておき改正を重ねただろう民法すら解釈を必要として学者が討論を続けてるという事は憲法においてそうなうなるのは当然とも言える。

 

憲法違憲となれば民法なり刑法なりその条文はあってはいけないのだ。

 

さてさて最近、ネットでみる人権という言葉。

人権とはきっと基本権、基本的人権をさすと思うんだが、これは憲法の中核をなすものと同時に他の柱とも言える平等主義、自由主義との密接な関係を持って、むしろそれなくしては存在しないのかもしれない。(確かなことはきっと偉い人が決めてくれる)

 

そして平等というのはこの国では「法の下の平等」であり、自由主義は国家権力が主権者たる国民の権利をおかしてはならないためでもある。民主主義の基盤ともいえるのかな?

どちらにしろ

 

日本国憲法は、「個人の尊厳」の原理(13条)の達成を目的とする とするのが憲法学の通説ないし定説である。」wikipediaより

 

通説と定説の違いについては置いていこう。うん。

 

13条とは

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」

 

 であってたと思う。

さてさてその中で義務教育で時代によって変わるかもしれないが「国民主権」「基本的な人権の尊重」「平和主義」が憲法の三本柱的な授業を受けた記憶があるようなないような。

この三つがどうして大事なのか、国民主権の民主主義で基本的人権は必要不可欠でもある、そう民主主義なのだ。

(平和主義あたりは今回はスルー)

 

そして資本主義でもあるだろう、日本。

法の下の平等は民主主義、資本主義を持つこの国で生活の平等を指すことではないと思う。(ってか法学界ではそうだろう)

機会、チャンスの平等に当たるものだろう。

じゃなければ生活水準を平等にしなければならなくなり資本主義はなりたたないだろう。

 

なので働いて得た収入で生活水準に差が出るのは法の下の平等において、または自由主義においても民主主義の為の自由主義だ。主権者たる国民が自由でないのは変だろう。

雇用法とかで賃金の支払いや、納税などの側面の法律も定められているが、憲法はどの法律よりも強いのだ。

 

しかしこうやって人権の意義を考えると、国家権力に対しての人権な感じしません?

 

 

んで裁判にも種類がある事は知っていると思うが、裁判の種類の違いをきちんと把握してる人が少ないようにも思えるこの頃。

刑事事件の罰金が遺族に渡ると思っている人がいたことでそうなのかも…と思ったのだ。

 

刑事裁判と民事裁判は別物であるという認識はあまり浸透してないようだ、と。

まず前提が違う、刑事事件は、刑法と刑事訴訟法を用いて、疑わしきは罰せずを基本にしている。(実際のところは闇がちらちらしてるとの噂もあるが)

刑事事件において、重い判決が下るだろう事件では国が弁護人をつけなければならない決まりがあるのだ。お金がなくてもついてくれるわけだ。

 

そして基本的に(闇はちらはスルー)犯罪を立証するのは検察官の仕事であり、無罪を証明する義務はない。犯人だ!って証拠が検察官が用意できない時は怪しけど有罪になんないよって事が基本に(闇ちらはスルーry)なっている。

 

 

民事裁判は原告側の申請で裁判が始まります。こちらに刑法などは持ち込まれることは多分ないでしょう。(ないよね?あったらやばよこの国)

ちなみに民事裁判に被告側が欠席をする事もできたはず、でも答弁書などなにもせず知らん、ってすると負けます。民事裁判は被告側が原告の内容は間違えてると証拠を出さないと原告が有利という勝つでしょう。

もちろん弁護士は自己判断。国はつけてはくれません。

負けると裁判の諸経費を払う義務まであります。

 

そして民事裁判で敗訴したとしても「前科」はつきません。

もちろん刑事事件も並列で行われるケースもあり、刑事裁判で「有罪」になれば「前科」というものがつくでしょう。

 

とここまで言ってもピンと来ない人が多いと思うのが、民事裁判は個人の争いを個人間で収められない時に裁判所が判断する裁判だ、という前提がすっぽり抜けてる主張を見かけるからです。

 

著作権まわりのお話を見てると混同してる感がひどいので気になったんだ・・・それだけ・・・

 

著作権知的財産権です。「財産権」です。

つまり他人の著作権をおかすってことはその人の財産を奪ったもしくは、その人が得るはずの財産を勝手にもらったとか、そういう事だと思うんだけど。

 

ちなみに企業相手に個人が訴えられた場合、示談や略式裁判(だっけ?)、和解を取るケースが多いのは、企業Vs個人だと「金銭的」に初めから負けているからだろうなぁと思う。

大抵の企業、特に裁判が絡む事業は会社で弁護士さんを雇ってる、裁判にまで持ち込む時は既に証拠になり得る物証や状況を持っている。その費用は企業なので個人的な財産とどうしても差はでる。

さて訴えられた個人がそこから自分の主張を通すためにしなくてはいけない事は時間、金額すべて膨大だ。例え勝っても弁護士費用は訴訟金にはならない。赤字は目に見えている。

損害賠償の裁判なら、賠償金の方が安くなったりもありえるかも知れない。

 

そこまでして裁判で勝つ理由がない場合、どっちを選択するかはそれこそ個人の自由だろう。

 

家族間の離婚、親権など一部外はほぼお金で解決、が民事裁判だ。当然賠償金は原告が勝てば原告に渡る。

例え裁判に勝てるとしても裁判・・・お金かかる。

時間も取られる。出廷も答弁書もださないと原告のほぼ一人勝ち判決になる。

 

損害賠償で勝ったとしよう、でも原告の主張は無効とされて払わなくてもいい事になる。

敗訴側である原告がいくら諸経費を払ってくれても、その中に含まれないものは自腹だ当然。

 

勝てるだけの証拠があろうと相手が無茶ぶりだろうと、裁判はお金と時間が結構かかる。

はじめからいちゃもんなら、刑事事件に切り替える方が得策じゃないかと思うくらいとにかく金いる。

 

 

民事裁判はともかく金が掛かるのだ。

 

 

企業の資金と個人資産で個人資産が上な人がどのくらいいるだろう。

借金までして勝っても賠償責任はなくなってもかかった金は相当なものになるんだ。

 

嫌な言い方だと思うけど金がものを言う裁判じゃないかな。

もちろん焦点が違う時もあるだろう、尊厳のための裁判は金がかかっても勝ちたいだろう。

 

ぶっちゃけ訴えられる覚えはにが、企業に裁判ふっかけられたら勝てる気は私はしないっす。

 

 

あとグレーゾーンという言葉を法律周りで聞くんだけれど意味が分からない。

えらいひと教えて。

 

訴えられないから今のところ大丈夫、ってのを指すなら確信犯で他人の権利を強奪してる事になると思うんだけど。それはおkなのか?

民事ならまぁ・・・私はしないがありでも刑事裁判になる場合のグレーゾーンってどんなことだろう・・・・・・。怖いからこれは聞きたくない。

少なくとも刑法に違反してると自覚してそれをし続ける程私は強くないな・・・・・・。

 

 

 

一見真面目で頭の良さそうな記事にしてみたけど、記憶の中の法律で書いたものなのでソースは「俺」。

なのででたらめなのかもしれないね!

でも法律に対して発言するなら民事裁判の敗訴が有罪とか刑事裁判の罰金は被害者にいくってのはあんまり言わない方がいいと思うよ!

 

他の話がどれだけ説得力あってもそんな事が主張の中にあれば一気に説得力なくなるから。

 

 

ブログを始めた理由

他のブログサイトで細々と書いてましたが、そこのテンプレないが見るに堪えないと思ったので改めてここで始めたいと思いました。

 

このブログは特に何かの感想や、意味のある意見をいうつもりはないです。

敢えて言うなら私の心情観察記録を公開してるもの、という感じでしょうか。

 

それを敢えてインターネットのブログでさせて頂くのは、自分の中に仕舞いきれないものが多い自分のためと、生きることが苦しいと本当に感じる私が少しでも楽になるために自分を許す事で楽になる事を見て、同じ様な苦しさを持つ人が少しでも楽になったかなとでも思ってくれたらいいなと思う自分の為です。

 

 

なので自分の為の発言場所になります。

苦しむ必要のない人が苦しむ必要のない世界になって欲しいという自分の願いを叶える為に何も出来ないので、自己満足するためかもしれません。

 

私は確かに「発達障害」という脳の障害を持ってます。(法律区分は精神障害)

個性のひとつと考えるのが一般的な様です。

でも「個性」と言えばプラスなイメージが多い中でこの「個性」はマイナスな事にすぐになったりします。

「個性」とはなんだろうか。一度くらい皆考えるでしょ。

それが人と少し違う障害と言われても具体的な想像などつかないと思います。

私も出来ません。

 

 

ただそんなに短くもない生活の中で、他人とのズレは意識せざる負えませんでした。

でも意識できない時期は長く、その時期はずれていることがいけない事だと一方的に思い込んだりもしました。

 

変わりにズレのせいで無神経な発言もします。

空気が読めない、とは少し違うんですが感覚として常識と思うことがズレてたりするので、どうしてそれが怒る理由になるか私がわからなかったり、周りが分からなかったりします。

もちろん悲しい、嬉しい、傷つくような事もです。

ただそれらが感じない訳ではなく感じるところがズレている事が、問題で言葉で理解し合おうとすれば理解できますが、(どちらかが)感情的な時にそれはとても難しい。

だから無神経に人を傷つける一方で、優しいと言われたり、他人から見ると変な人なのでしょう。

遠くで観察するには面白いと思うので、遠巻きにご鑑賞ください。

 

大丈夫です。画面の向こうで馬鹿にされてても私には見えませんから。

ただし、コメントなどで交流をとろうとは気軽には思わないでください。

見える言葉は見えますからね?